『絹の靴下』のメガヒットにより、夏木マリの生活は激変しました。分刻みのスケジュール、テレビ各局への掛け持ち出演、過剰なメディアの視線――。しかし、この狂乱のブームは長くは続きませんでした。過酷な労働環境と精神的プレッシャーが重なり、わずか数年で彼女の身体は悲鳴を上げます。
重度の低血圧と急性肺炎を併発し、3か月以上におよぶ絶対安静の長期入院を余儀なくされたのです。激しいスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す昭和の歌謡界において、数か月の不在は致命的でした。退院したときには自身のポジションは失われ、テレビからのオファーは潮が引くように消え去っていました。
当時の心境について、夏木マリは後のロングインタビューや自著の中で「マネージャーと2人、車に衣装を積み込み、毎晩全国のキャバレーやナイトクラブのステージに立っていた」と述懐しています。酔客がグラスを傾け、時にはステージに背を向けて会話に興じるような過酷な夜の世界。野次が飛ぶフロアで歌い続ける生活は、実に約8年間にもおよびました。
しかし、彼女はこのドン底の時代を単なる「転落」で終わらせませんでした。「どうすれば酒に酔った客の視線を自分に向けさせられるか」「マイク1本、身体一つで空間を支配するにはどう動くべきか」。夜の現場で叩き込まれた徹底的な客席観察と身体感覚こそが、後の舞台女優・夏木マリを形づくる強靭な土台となったのです。
1980年代に入ると、TBS系の名作ドラマ『Gメン'75』の津川螢子警視役をはじめとする映像作品で鮮烈な印象を残し、やがて蜷川幸雄演出の舞台など演劇界へ本格進出。1993年には「身体と言葉の融合」をテーマにしたコンセプチュアルなソロパフォーマンス舞台『印象派』を自ら立ち上げ、クリエイターとしての確固たる地位を築いていきました。