政治的権力を振るった女王や皇妃たちの中に、なぜ一介の女流歌人である小野小町が滑り込んだのでしょうか。文献史学およびメディア史の研究データから、選ばれた理由として主に2つの決定的なファクターが明らかになっています。
1つ目の理由は、明治期の文明開化に伴うナショナリズム(国威発揚)です。明治時代、日本は欧米列強に追いつくため、法律・軍事・文化のあらゆる面で「日本と西洋の対比」を試みました。西洋にクレオパトラ、隣国清(中国)に楊貴妃がいるならば、「我が大日本帝国にも世界に比肩する伝説の美女がいなければならない」という強い文化的対抗意識が働きました。そこで平安朝屈指の歌人であり、古今和歌集の仮名序でもその優美さが絶賛された小野小町が、日本代表として白羽の矢を立てられたのです。
2つ目の理由は、大正から昭和初期にかけての商業広告戦略です。当時勃興してきた化粧品メーカーや白粉(おしろい)の新聞広告、さらには美人画絵葉書の宣伝文句として「世界三大美女の一角・小野小町も愛した美肌」といったキャッチコピーが盛んに使われました。教育現場やメディアがこれを後押しした結果、「小野小町=世界三大美女」という図式が国民的常識として刷り込まれていきました。