Q1:『和泉式部日記』は本当に和泉式部本人が書いたのですか?他作説があると聞きました。
A1:古くから「三人称(女)で書かれていること」や「女を美化しすぎている」といった点から、平安後期の別の文人による仮託(他作説)も唱えられてきました。しかし、作中に散りばめられた和歌の卓越した技巧や感情描写の生々しさ、家集(和泉式部集)との親和性の高さなどから、現在では「和泉式部本人が、親王の死後に物語的構想をもって執筆した」とする自作説が学界の定説となっています。
Q2:敦道親王の正妻(北の方)は、その後どうなったのですか?
A2:実家に出奔した北の方(藤原済時の娘)は、正式に親王と離婚することになりました。彼女の姉は最高権力者・藤原道長の正妻である源倫子であり、敦道親王の行動は当時の名門貴族社会に対する重大な侮辱と受け止められました。親王は世間的な体面を著しく損ね、これが親王の政治的立場をより一層危うくする要因となりました。
Q3:紫式部が『紫式部日記』で和泉式部を酷評したのはなぜですか?
A3:紫式部は「けしからぬ(不都合な)振る舞いが多い」「素行は感心できない」と痛烈に批判しています。真面目で倫理観の強い紫式部にとって、親王兄弟を渡り歩きスキャンダルを巻き起こす和泉式部の生き方は受け入れがたいものでした。しかし同時に紫式部は、「ひとたび筆を執って歌を詠めば、情趣にあふれ、比類なき才能を持っている」と、その歌才に対しては最大級の賛辞を惜しみませんでした。