井之頭五郎を演じる松重豊のキャリアを振り返ると、もともとは舞台や映画で強面なヤクザ役や冷徹な刑事役などを演じ、バイプレイヤーとして確固たる地位を築いてきた俳優です。そんな彼に舞い込んだ「中年男性が一人で飯を食べるだけ」という主役のオファーは、当初本人にとっても大きな困惑を伴うものでした。「おじさんがご飯を食べている姿を誰が見るのか」と自嘲気味に語っていたエピソードは有名ですが、この役を引き受けるにあたり、松重は徹底したリアリズムを追求する独自の役作りを確立しました。
その象徴が、ファンの間で伝説となっている撮影前からの絶食ルーティンです。松重は撮影日の前日夜から一切の食事を断ち、当日の朝はもちろん、昼過ぎや夕方に始まる食事シーンの撮影本番まで、水やお茶程度しか口にしません。文字通り「胃袋を完全に空っぽにした極限状態」を作り出すことで、料理が運ばれてきた瞬間の感動や、最初の一口を口に運んだ際の本物の至福の表情を引き出しているのです。演じるのではなく、身体反応としての食欲をカメラの前にさらけ出すことこそが、五郎の圧倒的な説得力を生み出しています。