殊能将之氏の生涯は、当代きってのミステリー作家でありながら、私生活の露出を徹底して拒み続けた「完全な覆面作家」としての道でした。公表された断片的な事実と関係者の証言を丹念に辿ると、知られざるプロファイルが浮かび上がってきます。
1964年1月19日生まれ、福井県福井市出身。地元の名門進学校を経て名古屋大学理学部に進学するも中退。その後、制作会社に勤務して広告や編集の実務に携わりましたが、ハードワークから体調を崩し、1995年7月末に退職して郷里の福井へ帰郷しました。療養と在宅の日々の中で執筆されたのが、のちの歴史的傑作『ハサミ男』です。1999年に講談社が主催する第13回メフィスト賞を同作で射止め、鮮烈な文壇デビューを飾りました。
デビュー後も東京の文壇バーや授賞式といった華やかな社交場に顔を出すことはなく、終生福井の自宅を拠点に活動を継続。本名・素顔は一切非公開とされ、メディアのインタビュー取材も原則として書面やメール、担当編集者を介した限定的な形でのみ応じていました。
私生活を明かさなかった理由について、当時の担当編集者は「自らの人格や生活感によって、作品の純粋な読書体験を邪魔したくないという美学があった」と述懐しています。作家の顔や生々しいプライベートが作品の解釈を縛ることを嫌い、自らを透明な「物語の構築者」に徹せしめた態度は、情報過多な現代においてなお一層の高潔さを放っています。