寿司の世界で半世紀以上にわたり語り継がれてきた最大の俗説が、「女性は月経周期やホルモンバランスによって体温が変化し、手のひらが温かいため生魚の鮮度を落とす」という言説です。昭和を代表する著名な名工がメディアで語ったことで定着したこの言説ですが、医学および生理学の観点から検証すると、明らかな矛盾が浮き彫りになります。
日本人の体温調節機能に関する生理人類学の臨床データによると、基礎体温(深部体温)における黄体期の微小な上昇(約0.3〜0.5度)は存在するものの、指先や手のひらの末梢皮膚温においては、皮下脂肪の厚さや末梢血管の収縮傾向により、むしろ成人女性の方が男性よりも平均して1〜2度程度低いことが確認されています。つまり、「女性の手が温かいからネタが痛む」というロジックは、生体工学的な事実と完全に逆転しています。
寿司のネタが体温の影響を受けるかどうかという議論において、第一線で腕を振るう江戸前寿司職人の実態は明快です。現場の熟練職人は、性別を問わず仕込みや握りの合間に「手水(てみず)」と呼ばれる酢水や氷水で常に指先を冷やし、シャリやネタに触れる時間をわずか数秒にとどめる技術を徹底的に叩き込まれます。手の温度を理由にした排除の論理は、伝統的な男社会を正当化するために後から貼り付けられた「作られた神話」に過ぎません。