なぜ滋賀県の県庁所在地は「滋賀市」ではなく大津市なのか。なぜ兵庫県は「兵庫市」ではなく神戸市なのか。ここには、明治維新期の廃藩置県と地方行政区画の改編という壮大な政治的力学が存在します。
滋賀県が大津市を県庁所在地とした理由と変遷
滋賀県は、幕末から明治維新にかけて目まぐるしい行政区画の変更を経験しました。1871年(明治4年)の廃藩置県当初、大津には「大津県」が置かれていました。しかし翌1872年、県庁を大津から滋賀郡へ移転する構想などが浮上した際、県名が郡名を採用して「滋賀県」へと改称されます。
その後、琵琶湖の北側を管轄していた「犬上県(旧彦根藩を中心とする地域)」が滋賀県に統合され、現在の琵琶湖全体を包括する滋賀県が誕生しました。県庁は結果として古代以来の水上交通の要衝であり、東海道・東山道の合流点であった大津の地に存置されたものの、県名には広域統合時に採用された「滋賀郡」の名称がそのまま定着しました。これが「滋賀県大津市」という名称のズレが生じた歴史的理由です。
兵庫県が神戸市を県庁所在地とした理由と開港の衝撃
兵庫県の場合、背景にはさらに劇的な対外政策の転換がありました。兵庫県の名称は、古くからの良港として平清盛の日宋貿易でも知られた「兵庫津(ひょうごのつ)」に由来します。明治新政府は1868年、幕府が置いた兵庫奉行所を引き継ぎ「兵庫裁判所」、次いで「兵庫県」を設置しました。
当時、不平等条約のもとで開港を迫られていた日本に対し、外国列強は兵庫津の開港を要求していました。しかし、人口が密集し西国街道が通る歴史的商業地・兵庫津に外国人居留地を開設することは、攘夷派武士との武力衝突を招く危険性が極めて高かったのです。そこで明治政府は、兵庫津から東へ数キロメートル離れた寒村であった神戸村(現在の神戸港周辺)に開港場を設置しました。
開港後の神戸は急速に近代的な貿易港湾都市へと変貌を遂げ、巨大な経済拠点へと飛躍します。1876年(明治9年)までに飾磨県(播磨国)や豊岡県(但馬・丹後国)、名東県の一部(淡路国)を併合した巨大な兵庫県が完成した際、全県の首脳部となる県庁舎は、すでに世界へ開かれた中心都市へと急成長していた神戸の地(坂本村・下山手通)へと定められました。県名に歴史的な「兵庫」を残しつつ、実質的な機能の中心が「神戸」へとシフトした結果生まれたのが現在の姿です。