多くの大人が学生時代に「薬子の変」と暗記したこの事件が、なぜ近年の歴史教科書で「平城太上天皇の変」へと書き換えられたのでしょうか。その背景には、戦後の日本古代史研究の進展と、史料批判の精緻化があります。
最大の理由は、「事件の首謀者は薬子ではなく、平城上皇自身であった」という歴史的実態の再評価です。事件当時の朝廷記録『日本後紀』は、嵯峨天皇側の勝利の正当性を強調するために編纂された側面を持ちます。そこでは「上皇は病気で判断力を失っており、悪女・薬子とその兄・仲成が上皇を操って政治を乱した」という筋書き(いわゆる女禍論・妖婦論)が強調されていました。
しかし、近年の史料研究では、平安京遷都の撤回や太政官機構の再編を命じた詔勅は、平城上皇自身の強固な政治的意志によるものであることが立証されました。上皇自身が失地回復と親政の奪還を狙って主導した政変である以上、一臣下に過ぎない女性の名を冠するのではなく、首謀者である平城上皇の名を冠して「平城太上天皇の変」と呼ぶのが歴史学的に正確であると判断されたのです。文部科学省の教科書検定においてもこの見解が支持され、現在の表記改訂に至っています。