人間の体内には、生命維持のためのセーフティネットが何重にも張り巡らされています。例えば血圧の調節や体温維持には多数の冗長系(バックアップシステム)が備わっており、ひとつの機能が滞っても即座に命を落とさない工夫がなされています。しかし、血糖値を下げる機構に関しては、その常識が完全に覆ります。血糖値を下げるホルモンが1つしかない理由を解き明かす鍵は、およそ700万年に及ぶ人類の進化史にあります。
人類の祖先が直面し続けた最大の脅威は、常に「飢餓」と「外敵の襲来」でした。血液中のブドウ糖が枯渇して低血糖に陥ると、脳は活動を停止し、意識障害や即座の死を招きます。そのため人体は、絶食状態や極限のストレス下でも血糖値を維持・上昇させる防衛ラインとして、グルカゴン、アドレナリン、コルチゾール、成長ホルモンといった複数の対抗手段を多重構造で発達させました。
一方、人類が精製された炭水化物や過剰な糖質に日常的にアクセスできるようになったのは、産業革命以降のわずか200年足らず、日本国内で見れば戦後数十年に過ぎません。進化のタイムスケールにおいて、「血糖値が上がりすぎて血管がボロボロになる」という事態は想定外の緊急事態でした。過剰な糖を処理するためのバックアップシステムを生物学的に獲得する猶予がないまま、私たちは飽食の時代へ突入してしまったのです。