生島ヒロシのキャリアを語る上で欠かせないのが、1989年のTBS電撃退社と、その後に直面した未曾有の危機です。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科を卒業後、1976年にTBSにアナウンサーとして入社。『街かどテレビ11:00』などで爆発的なお茶の間の人気を獲得した彼は、なぜ順風満帆だった局アナの地位を捨てたのでしょうか。
自著や当時の報道インタビューによると、退社の最大の動機は「自らの手でメディアビジネスを創り出し、アナウンサーの新たな可能性を切り拓きたい」という強い起業家精神でした。昭和から平成へと移り変わる好景気の中、フリー転身と同時に個人事務所「株式会社生島企画室」を立ち上げます。
しかし、独立後の現実は過酷を極めました。バブル崩壊と事業多角化(スポーツジム経営や不動産投資など)の失敗が重なり、生島企画室は最大で約10億円の借金を背負う事態に陥ったのです。当時の心境について、生島本人は後に手記で「夜も眠れず、毎月の資金繰りに追われて生きた心地がしなかった」と赤裸々に振り返っています。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、1998年にスタートしたラジオ番組への情熱と、徹底した現場主義でした。テレビの派手なギャラに頼るのではなく、スポンサー営業から企画立案まで自ら泥臭く動き回り、およそ四半世紀をかけて巨額の負債を完済。この過酷な試練が、現在の盤石な経営基盤と謙虚な仕事観を育む決定打となりました。