田中角栄の最後と知られざる晩年|脳梗塞から慶應病院での最期まで

田中角栄の最後と知られざる晩年|脳梗塞から慶應病院での最期まで

田中角栄の最後と知られざる晩年|脳梗塞から慶應病院での最期までの全体像を詳しく解説してご紹介します。

田中角栄の政治生命が物理的に断たれたのは、1985年2月27日のことでした。直前の2月7日には、愛弟子であった竹下登らが派閥内グループ「創政会」を結成。自らが絶対君主として君臨していた田中派(木曜クラブ)の足元が揺らぎ、凄まじい政治的ストレスと過度の飲酒が重なった矢先の悲劇でした。

夕刻、東京・目白台の私邸(通称・目白御殿)で呂律が回らなくなり、意識障害を起こした田中角栄は、直ちに慶應義塾大学病院へと救急搬送されます。診断は重度の「脳梗塞」。一時は生命の危機を脱したものの、政治家としての最大の武器であった弁舌を奪う重度の言語障害(失語症)と、右半身の不随という過酷な後遺症が残りました。

慶應病院での約4ヶ月にわたる厳戒態勢の入院生活を経て、同年6月に目白御殿へと退院。しかし、かつて「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれ、早口で政策をまくし立てていた男の姿はそこにはありませんでした。報道各社の取材データによると、退院後は邸内での理学療法や歩行訓練に励んだものの、かつてのように公の場で演説を行える健康状態へ戻ることは二度と叶いませんでした。

高橋 健太
著者

高橋 健太

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。