現代の言論空間において、「罪を憎んで人を憎まず」が強いアレルギーを引き起こす最大の理由は、「被害者の救われない感情の抑圧」にあります。
刑事裁判の法廷や重大事件の遺族手記を振り返ると、「犯人の生い立ちにどれほど同情すべき点があろうと、我が子を奪った男を憎まないことなど絶対にできない」という肉声が繰り返し綴られています。犯罪被害者等基本法の制定以降、司法の場でも被害者参加制度が定着し、感情の正当性が認められる流れが加速しました。その潮流の中にあって、「人を憎むな」という命題は、傷ついた当事者に対して不当な我慢を強いる「抑圧の言葉」として受け止められるようになったのです。
SNS上の生々しい反響を分析すると、以下の3点が「綺麗事」と断じられる本質的な要因として浮き彫りになります。
第一に、「反省なき加害者の盾」として悪用される実態です。詐欺事件やネット上の誹謗中傷で書類送検された人物が、執行猶予や不起訴になった途端、「法的な責任は果たした。人をいつまでも憎むのはやめろ」と居直るケースが頻発しています。反省と謝罪、そして具体的な被害弁償が完了していない段階でこの言葉が持ち出されると、世論は激しい道徳的嫌悪を抱きます。
第二に、心理学でいう「トキシック・ポジティビティ(有害な前向きさ)」の強制です。「許すことがあなたの心の平和につながる」といった外部からの安易なアドバイスは、怒りや悲しみを抱く被害者から自然な感情処理のプロセスを奪い、二次被害(セカンドレイプ)を生み出す原因となります。
第三に、「罪と人は不可分である」という人間の本性です。法律や論理の上では「行為」と「主体」を分離して定義できますが、感情を持つ生身の人間にとって、悪意ある行為を働いた人物そのものに敵意を向けるのは極めて自然な防衛反応です。この人間心理の生々しさを切り捨て、理想論だけを押し付ける言説に対して、ネットユーザーは「綺麗事」という冷徹なレッテルを貼っているのです。