嘉永2年(1849年)、北斎が90歳で世を去ると、応為の人生は一転して深い霧に包まれます。北斎没時、応為は50代前後であったと考えられますが、残された記録は極端に少なくなります。
安政4年(1857年)頃、応為は突如として江戸の仮宅を出て行方知れずになったと伝えられています。その後の消息については、歴史研究者の間でも以下のような諸説が対立しており、決定的な遺骨や墓所はいまだ特定されていません。
- 加賀前田家滞在説:金沢の前田家に絵師・御用絵師待遇で招かれ、北陸の地で余生を過ごしたとする説。
- 信州小布施移住説:北斎の有力なパトロンであった豪商・高井鴻山を頼り、信濃国小布施で静かに暮らしたとする説。
- 浅草隠棲・病没説:江戸浅草の親族の元に身を寄せ、貧困の中で病没したとする説。
絶対的な精神的支柱であり、創作の対象でもあった父・北斎を失った応為にとって、江戸の画壇に留まり続ける理由はすでに失われていたのかもしれません。世俗の名声を一切求めず、風のように姿を消したこの幕引きこそが、葛飾応為という絵師の孤高さを象徴しています。