中国地方の県庁所在地完全ガイド|島根・山口の歴史の謎と暗記術

中国地方の県庁所在地完全ガイド|島根・山口の歴史の謎と暗記術

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インターネット上の掲示板やSNSでは、県庁所在地の決定プロセスに関して、歴史的実態とは異なる興味本位の言説が散見されます。それらの真相を一次史料や公文書の記録から検証します。

「明治新政府への忠誠度で県名と県庁所在地の一致が決まった」説の真偽

ネット上で定期的に拡散される俗説に、「戊辰戦争で明治政府軍(官軍)についた藩は『県名=県庁所在地』になり、旧幕府側についた賊軍の藩は県名と県庁所在地をバラバラに改名させられた」という説があります。

しかし、この説は歴史学的には明確に否定されています。もしその法則が真実であれば、明治維新を主導した長州藩の山口県において、なぜ旧藩名の「萩」ではなく内陸の「山口」が選ばれ、県名も山口になったのかが説明できません。また、薩長土肥の筆頭である鹿児島県(薩摩)や高知県(土佐)、佐賀県(肥前)は旧藩名と県名が異なっており、旧城下町の名がそのまま県名に採用されています。

明治初期の内閣や大蔵省(後の内務省)の記録を精査すると、県名の命名基準は「郡名や地域全体の伝統的な呼称を採る」「旧藩の専制色を払拭するために新名称を付与する」「地理的な郡名を採用する」といった実務的判断の積み重ねであり、懲罰的な意図によるものではないことが判明しています。

鳥取県が一時「島根県に併合」されていた歴史的経緯

現代では別の県として明確に区別されている鳥取県と島根県ですが、1876年(明治9年)から1881年(明治14年)までの約5年間、鳥取県は島根県に編入され、消滅していたという驚くべき事実があります。

当時、明治政府は財政基盤を強化するため、全国の大規模な府県統合を推進しました。この際、鳥取県全体が島根県に吸収され、広大な「大島根県」が誕生したのです。しかし、県庁が松江に置かれたことで、旧鳥取県域の住民からは「行政手続きに不便を極める」「予算の配分が松江周辺に偏っている」といった強い不満が噴出しました。

これに対し、旧鳥取藩士の愛国運動家・神田清純らを中心とする有志が「鳥取県再置(復活)運動」を展開。内務卿・山縣有朋ら中央政府への粘り強い陳情活動が実を結び、1881年9月に鳥取県は島根県から独立・再置を果たしました。この激動の経緯を知ることで、両県が独立した主体として現在の県庁所在地を堅持している重みが理解できます。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。