俵万智の代表作といえば、やはり第一歌集『サラダ記念日』だ。1987年5月の刊行から爆発的に売れ、歌集としては異例の280万部を超えるベストセラーとなった。この数字は、当時の出版市場において詩歌ジャンルではあり得ない規模であり、短歌を「特権的な文学」から「日常の言葉」へと解放した転換点として位置づけられている。
代表作のひとつ「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」は、恋人との何気ない食卓の会話を三十一文字に定着させた。この歌が多くの読者を惹きつけたのは、恋愛の甘美さだけではない。日常のささやかな瞬間を「記念日」として祝福する感性が、特別な事件を待たずとも人生は輝けるというメッセージとして届いたからだ。文学研究者の間では、この歌が「記念日文化」や「日常美学」の先駆けとして評価され、後の写メ文化やインスタグラムの「#日常」投稿へとつながる感性の原型とも分析されている。
また、「嫁さんになれよだなんて缶チューハイ二本で言ってしまえぬか」や「落ちてきた雨のつぶてのまっさきに六本木の街が濡れている」など、口語のリズムと都市的な景観を取り入れた表現は、従来の文語調中心だった短歌のイメージを根本から覆した。NHK短歌のアーカイブ映像で本人が語ったところによると、当時は「こんなのは短歌ではない」という批判もあったが、「でも、これが私のリアルな生活でしたから」と若い頃の自身の姿勢を振り返っている。
この歌集が現代短歌に与えた影響は計り知れない。口語短歌、日常詠、恋愛短歌というカテゴリーそのものを確立し、その後の現代歌人たち——たとえば枡野浩一や穂村弘らに代表される「ニューウェーブ短歌」の潮流を準備した。2026年現在、短歌関連書籍の年間出版点数は1990年代と比較して約3倍に増えたという出版統計もあり、その起点として『サラダ記念日』を挙げる識者は多い。