事件当時の文壇は、太宰の死に対して冷徹な反応を示しました。作家・三島由紀夫は生前、太宰の甘えや自己憐憫を公然と批判しており、死後も「冷水摩擦や体操でもしていれば治ったはずの病気だ」と手厳しく評したエピソードは有名です。
一方、太宰の師であった井伏鱒二は深い衝撃を受け、太宰の遺骨が埋葬された三鷹市・禅林寺の墓所選定に奔走しました。禅林寺は太宰が生前敬愛していた森林太郎(森鴎外)の墓がある寺であり、「鴎外の墓の向かいに眠りたい」という太宰の生前の希望を叶えたものでした。
現代の読者から見ると、「妻子を残して愛人と入水する」という行為は無責任極まりない背信行為として映る一面があります。しかし、当時の世相は敗戦による価値観の完全崩壊、虚無感(アプレゲール)が蔓延していた時代でした。太宰の死は、戦後の混乱期に生きる苦悩をすべて一身に背負い、身代わりとなって散っていった「殉教」のようなニュアンスを帯びて大衆に受け止められた側面を見逃すことはできません。