原敬出身地は、現在の岩手県盛岡市本宮です。安政3年(1856年)、盛岡藩の家老格を務めた原直治の孫、原直記の三男として誕生しました。原家は知行数百石を領した盛岡藩武士の重臣であり、当時の盛岡城下でも屈指の名家として知られていました。
しかし、原が12歳のときに勃発した戊辰戦争がその運命を激変させます。盛岡藩は奥羽越列藩同盟の一角として新政府軍と交戦した結果、敗北を喫しました。盛岡藩は大幅な減封処分を受け、藩士たちは困窮の極みに叩き落とされます。新政府における「賊軍」の烙印は重く、薩長藩閥が牛耳る明治初期の中央政界において、東北出身者への風当たりは極めて厳しいものでした。
ここで多くの読者が抱く疑問が、「上級武士の家柄でありながら、なぜ平民宰相と呼ばれたのか」という点です。明治維新後、士族階級に編入されていた原敬ですが、1879年(明治12年)、23歳のときに戸主であった兄の家から自ら願い出て分家独立を果たしました。当時の法令では、華族や士族の分家は原則として「平民」として扱われる規定になっていたため、原は戸籍上、自らの意思で平民となったのです。
さらに後年、日露戦争後の功績などにより伊藤博文や山県有朋から男爵などの華族令に基づく叙爵(爵位の授与)を幾度も打診されましたが、原敬は頑なにこれを断り続けました。貴族院ではなく国民の直接選挙で選ばれる衆議院に軸足を置き、「一介の平民として政治の頂点に立つ」という確固たる政治信条を貫いたことこそが、平民宰相の理由です。