開戦前夜、指導者層全員が狂信的に勝利を信じていたわけではありません。むしろ関係者の残した日記や回顧録には、極めて悲観的な見通しと、それでも流れを止められない無力感が克明に刻まれています。
連合艦隊司令長官・山本五十六は、近衛文麿首相に対して次のように語っています。
「それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間は暴れてご覧に入れます。しかし、2年3年となれば、全く確信は持てません。三国同盟が結ばれた以上、極力日米戦争を回避するようご尽力願いたい」(近衛文麿『平和への努力』より)
また、海軍大臣を務めていた嶋田繁太郎や企画院総裁の鈴木貞一らも、物資・工業力の絶望的な差を認識していました。開戦直前の1941年夏、内閣総理大臣直属の「総力戦研究所」が行った机上演習では、「緒戦の勝利ののち長期戦化し、ソ連の参戦、補給線の寸断、原爆等の新兵器開発などにより日本必敗」という、後の現実を正確に予測した結論が導き出されていました。
それにもかかわらず、東条英機首相をはじめとする指導部は「時に山を飛び降りるような思い切った決断が必要なこともある」として、精神論と楽観論にすがり、破局への行進を止めることができませんでした。組織全体が「引くに引けない空気」に支配され、誰もブレーキを踏む責任を引き受けようとしなかったのです。