ソクラテスが周囲の「知ったかぶり」を解きほぐすために用いた対話の手法は、哲学用語で問答法(ディアレクティケー)、別名「産婆術(マイエウティケー)」と呼ばれます。ソクラテスの母親が産婆(助産師)であったことに由来するこの技法は、相手に一方的に知識を教え込む教育的アプローチとは正反対の構造を持っています。
母親が胎児を産むのではなく妊婦の出産を助けるように、ソクラテス自身は知恵を一切教えず、問いを重ねることで相手の頭の中にある矛盾や曖昧さを露呈させ、相手自らが「自分は何も知らなかった」と気づき(アポリア=行き詰まり)、真理を生み出す手助けをしました。
このプロセスは、現代のビジネスや学術領域で必須とされるクリティカルシンキング(批判的思考)の原型そのものです。相手の主張の前提を疑い、「それはどのような根拠に基づいているのか」「別の文脈でも成立するのか」と反証を試みることで、バイアスを取り除きます。
現代の認知科学では、能力の低い人ほど自分の能力を過大評価し、熟達者ほど自身の至らなさを自覚する「ダニング=クルーガー効果」が広く立証されています。ソクラテスが2400年前に見抜いていたのは、人間が脳の省エネのために直感的な思い込みに飛びつき、客観的な自己評価を見失うという、根源的な認知の脆弱性でした。