通説において、豊臣家は1615年の大坂の陣によって完全な滅亡を迎えたとされている。城と命を共にした豊臣秀頼、そして京都六条河原で処刑されたわずか8歳の国松。この2人の死をもって、秀吉の男系男子の直系は途絶えた。徳川幕府による徹底した残党狩りと情報統制が敷かれたため、歴史の表舞台から豊臣の威光は消え去ったかのように思われた。
だが、真相は一枚岩ではない。秀頼の落胤や、豊臣一族の女性たちが残した血脈は、苛烈な監視の目を逃れるようにして全国各地へ潜伏していた。秀頼の娘である天秀尼は東慶寺に入寺して助命されたが、彼女以外にも、秀吉の養子や近親者を経由した「もう一つの豊臣の血」がひそかに受け継がれていたのだ。