崇徳天皇を巡る歴史は、平安時代末期の壮絶な権力闘争から始まります。1156年(保元元年)の「保元の乱」において、弟の後白河天皇や関白・藤原忠通らの勢力に敗北した崇徳上皇は、罪人として讃岐国(現在の香川県)へ配流される憂き目に遭いました。
讃岐での生活において、上皇は自らの血を用いて五部大乗経(約60万字)を写経し、「戦没者の供養と自らの反省の証として京の寺院に納めてほしい」と朝廷へ送りました。しかし、後白河法皇側は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、その経典を讃岐へ送り返してしまいます。この冷酷な仕打ちに激怒した崇徳上皇は、舌を噛み切ってその血で経典に誓状を記し、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」という凄絶な呪詛を遺して46歳で崩御したと『保元物語』などの古典は伝えています。
上皇の死後、平安京では「安元の大火(太郎焼亡)」による都の壊滅、後白河側近の相次ぐ怪死、さらには武士(平氏・源氏)の台頭による貴族政治の終焉といった激震が続きました。朝廷はこれを崇徳上皇の祟りと恐れ、諡号(しごう)を「讃岐院」から「崇徳院」へと改め、神霊を慰めるための儀礼を尽くしました。
日本の神道には、荒ぶる強力な怨霊を丁重に祀り上げることで、国家や民衆を守護する最も強力な「御霊(ごりょう)」へと転化させる御霊信仰(ごりょうしんこう)の伝統が存在します。そして明治維新直前の1868年(慶応4年)、明治天皇の勅命により讃岐の白峯陵から御霊が京都へと迎えられ、「白峯神宮」が創建されました。700年以上の時を経て、崇徳天皇は国家の守護神として正式に都へ帰還を果たしたのです。