延喜元年(901年)1月、右大臣の要職にあった菅原道真は突如として「大宰員外帥(だざいいんがいのそち)」へと左遷を命じられました。実質的な配流処分となったこの政変は「昌泰の変(しょうたいのへん)」と呼ばれます。名門貴族ではない学者家系の出身でありながら、宇多天皇の絶大な信任を得て異例のスピード出世を遂げた道真に対し、名門藤原氏の若きリーダー・藤原時平を中心とする貴族勢力が激しい危機感を抱いたことが発端です。
表向きの左遷理由は「醍醐天皇を廃立し、自らの娘婿である斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようと企んだ」という国家反逆の嫌疑でした。しかし、この密告は藤原時平一派による完全な誣告(でっち上げ)であったことが定説となっています。宇多上皇が醍醐天皇への直訴を試みるも、時平派の公卿によって内裏の門前で阻まれ、弁明の機会すら与えられないまま道真は都を追われました。
道真の政治手腕を示す代表例が、寛平6年(894年)の遣唐使廃止の理由に関する建白です。当時の唐は黄巣の乱を経て極度に衰退しており、渡航のリスクに見合う政治的・文化的見返りが乏しいことを見抜いた道真は、遣唐大使への任命を機に派遣中止を進言しました。これは空文化した外交慣例を打ち破るプラグマティックな決断であり、以後の国風文化の開花を決定づけた功績ですが、こうした合理的改革姿勢そのものが守旧派貴族との軋轢を深める要因ともなりました。