だが、その響きは日本の軍国主義的拡大とともに致命的な変質を遂げる。日中戦争期、日本の公的機関やメディアが相手国を「支那」と呼び続けたことで、言葉には侵略の記憶と優越意識、そして蔑称としての影が色濃く染み付いていった。中華民国政府側はこれを侮蔑的呼称として抗議し、「中国」の国号を用いるよう強く求めた。
決定的な転換点は敗戦直後の1946年(昭和21年)6月に訪れる。外務省総務局長から各省次官および報道機関に向けて出された通達「支那の呼称を避けることに関する件」である。中国側の強い要請を受けたこの行政指導により、公的文書や新聞・放送から呼称は速やかに追放された。アジア歴史資料センターが保管する当時の公文書には、国際協調へ舵を切る敗戦国の苦悩と、言葉の政治性を清算しようとする明確な意志が記録されている。