右の頬を打たれたらの真実|無抵抗ではない痛烈な抵抗だった聖書の真相

右の頬を打たれたらの真実|無抵抗ではない痛烈な抵抗だった聖書の真相

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この教えが登場するのは、新約聖書『マタイによる福音書』第5章38〜42節に記録された有名な「山上の垂訓(山上の説教)」の中である。イエスは当時の人々に向けて「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と説いた。この一節がなぜ単なる弱者の泣き寝入りではないのか。その鍵は、当時の厳格な身体作法と文化的タブーに隠されている。

第一に、古代ユダヤ社会において左手は排泄や不浄な用途にのみ使われる手であり、公の場で他人に触れることは許されなかった。したがって、誰かを叩く行為は必ず「右手」で行われる。では、向かい合っている相手の「右の頬」を自分の右手で打つには、どのようなフォームになるだろうか。

右手の手のひらで相手の顔を打てば、当たるのは相手の「左の頬」になる。右手で相手の「右の頬」を打つ方法はただ一つ、右手の甲を使った平手打ち(バックハンド)しかない。古代セム的社会において、手の甲で顔を叩く行為は、対等な喧嘩ではなく、主人が奴隷に、ローマ兵が被支配民に、あるいは父親が反抗的な子どもに対して行う「身分が下の者を屈服させるための侮辱的な折檻」に限定されていた。

そこで被害者が黙って首を垂れるのではなく、毅然として「左の頬」を突き出したらどうなるか。加害者は動揺せざるを得ない。左の頬を打つためには、右手の手のひらで平手打ちするか、あるいは握り拳で殴り倒すしかないからである。しかし、手のひらや拳で殴る行為は、対等な立場の成人男性同士の殴り合いを意味する。加害者が左頬を殴れば相手を対等と認めることになり、殴るのをやめれば自らの威圧が通用しなかったことを認めることになる。すなわち「私を家畜のように侮辱することは許さない。殴りたいなら対等な人間として殴れ」と、暴力を使わずに相手の支配欲を無力化する高度な心理的逆襲だったのである。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。