ふたつの動乱がもたらした最大の結果、それは古代国家を支えてきた平安貴族社会の実質的な終焉と、保元・平治の乱の結果と武士の台頭です。
乱が終結した直後、天台座主を務めた高僧・慈円はその著書『愚管抄』において、「鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆となりて、武者の世になりにけるなり」と記しました。貴族たちは自らの権力闘争を自力で調停できず、武士の刀に頼らざるを得なくなりました。その結果、「本当に国を動かしているのは武力を持つ者たちである」という厳然たる事実を、朝廷自身が証明してしまったのです。
平治の乱で唯一無二の勝者となった平清盛は、ライバル不在の京で権力を独占します。1167年には武士として初めて朝廷の最高位である太政大臣に就任。一族で高官を独占し、「平家にあらざれば人にあらず」と豪語するほどの栄華を極めました。これが平氏政権誕生の歴史的背景です。
しかし、朝廷の頂点に登り詰めた平氏の栄華は、新たな矛盾を生み出します。貴族化し、中央の権力基盤に安住した平氏は、地方で困窮する東国武士たちの土地問題や不満を顧みなくなっていきました。
伊豆の片隅で生き延びた源頼朝が、20年の雌伏の時を経て挙兵したとき、全国の武士たちが平氏を見限って頼朝の元へ馳せ参じた理由がここにあります。保元・平治の乱という血塗られた胎動期を経て、日本史は名実ともに武士が天下を治める中世封建社会へと突き進んでいきました。