歴史の教科書やインターネット上の言説では「鹿鳴館=愚かな西洋かぶれの無駄遣い」と単純に断じられがちですが、これには歴史的な検証において重要な盲点があります。
鹿鳴館で行われた舞踏会や社交活動は、単なる遊興ではなく、当時の国際標準における「公式な外交儀礼(プロトコル)」を国家として体得するための切実な実地演習でした。当時の国際秩序において、外交交渉の多くはディナーや舞踏会の合間に行われるインフォーマルな対話によって進められており、社交界の作法を知らない国は対等な対話相手としてすら認められなかった時代だったのです。
事実、鹿鳴館時代に培われた国際儀礼のノウハウや人的ネットワークは、のちに陸奥宗光や小村寿太郎が主導して成し遂げた条約改正(1894年の領事裁判権撤廃、1911年の関税自主権完全回復)の土台として確実に機能しました。鹿鳴館外交そのものは短期的に失敗したものの、近代外交プロトコルを急造したプロセスは、日本の外交史において避けて通れない助走期間だったと言えます。