江戸川乱歩の作品群において、『人間椅子』が突出して「生理的嫌悪感」と「トラウマ」を喚起する理由は、人間の知覚と空間心理学の境界を巧妙にハッキングしている点にあります。
一般的なホラー作品が視覚的・聴覚的脅威(怪物、幽霊、暴力)を描くのに対し、本作は徹底して「触覚」の描写に特化しています。人間が完全に無防備になり、全体重を預けて脱力する対象である「椅子」という家具。その内部に他者の生身の肉体、体熱、湿気、呼吸が存在し、布一枚の隔たりで密着しているという描写は、読者の皮膚感覚をダイレクトに刺激します。
さらに重要なのが「心理的バウンダリー(境界線)」の破壊です。家の中で最も安全であるはずの書斎や自室が、知らぬ間に最も危険な侵入者の隠れ蓑と化していたという事実は、読者の日常空間に対する安全神話を不可逆的に崩壊させます。読了後、誰もが無意識に自宅のソファーの座面を手で押し、内部の隙間を確認してしまう現象こそ、乱歩が仕掛けた心理トラウマの完成形と言えます。