図越利一の名を語る上で欠かせないのが、戦後直後の混乱期に起きた七条警察署事件です。この事件こそが、彼を「単なる街のヤクザ」から「警察すら一目置く京都の番人」へと押し上げた決定的な契機でした。
終戦直後の1946年、敗戦による警察権力の著しい低下と社会の混乱に乗じ、闇市や物資の利権を巡って各地で摩擦が激化していました。京都においても在日本朝鮮人連盟(朝連)関係者と地域勢力との緊張が極限に達し、ついには群衆が京都府七条警察署を取り囲み、占拠しようとする事態に発展します。武装もままならず自力での庁舎防衛が不可能と判断した当時の七条警察署は、驚くべきことに、地域を実力で支配していた図越組(図越利一)へ直接救済を要請したのです。
警察からの要請を受けた図越は、即座に配下の組員を総動員して七条署内に待機させ、署を包囲・突入してきた集団を迎え撃ちました。警察署の内部でヤクザと群衆が刃物や鈍器を交えて激突するという、前代未聞の乱闘劇が繰り広げられたのです。報道や警察の事件記録によると、この凄惨な衝突により日本人側1名、相手側4名から7名の死者が出たとされています。
結果として警察署の防衛に「成功」した図越組は、警察当局に対して絶大な発言力と暗黙の庇護を獲得することになりました。国家権力が暴力団組織に治安維持の代行を依頼したこの事件の真相は、法治国家としては許されざる汚点でありながら、当時の無法地帯において図越が京都の地下秩序の頂点に君臨する不動の伝説を決定づけた瞬間でもありました。