現代のインターネット掲示板やSNSなどの歴史コミュニティでは、「当時の長州藩は世界の情勢も知らない狂信的カルト集団だった」「テロリスト同然の無謀な挑発をして自滅しただけ」という単純化された評価が散見されます。しかし、一次史料と政治背景を検証すると、この見方は一面的な誤解であることが分かります。
第一の誤解は、「長州藩士は西洋の強さを知らなかった」という点です。実際には、長州藩の上層部や知識人層はアヘン戦争の経緯を『海防論』などで詳細に把握していました。それどころか、下関事件の前年には井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5名(いわゆる「長州ファイブ」)をイギリスへ秘密留学させており、西洋の科学技術や軍事力を誰よりもリアルタイムで学ばせていた藩でもありました。
ロンドンで四国連合艦隊派遣の情報を掴んだ伊藤と井上は、藩の壊滅を阻止するため急遽帰国し、開戦直前の下関で藩主や重臣に対し「英仏と戦えば長州は滅亡する」と必死の和平工作を行っていました。藩内首脳部も軍事力で勝てないことは百も承知だったのです。
ではなぜ戦わざるを得なかったのか。ここに第二の盲点である「国内政治権力闘争のチキンレース」が存在します。
当時、幕府は開国通商条約を結びながらも、朝廷に対しては「いずれ攘夷を行う」と二枚舌の宥和策をとっていました。長州藩の過激な攘夷決行は、「幕府が本気で朝命を果たす気があるのか」を天下に白日の下に晒し、幕府の正統性を根底から揺さぶるための高度な政治的プロパガンダだった側面があります。あえて外国船を撃つことで、幕府に「長州を支援して全国攘夷を指揮するか、それとも朝命に背いて外国側につくか」の二者択一を迫ったのです。
結果として幕府は長州を支援せず、むしろ長州征討を命じる側に回ったことで、幕府自身の「尊皇」の看板は偽りであることが諸藩に露呈しました。長州藩の無謀に見える軍事行動は、破滅的なリスクを伴いながらも、旧体制の矛盾を暴力的に暴き出す冷徹な政治的触媒として機能していたのです。