メンタルヘルスの領域で最も根強く囁かれるのが、「精神科の薬を飲み始めたら最後、死ぬまでやめられない」という言説です。しかし、臨床現場において精神科の薬を一生飲み続ける理由として正当化されるケースは、統合失調症や双極性障害など、脳内の神経伝達物質の調整が器質的に不可欠とされる特定の慢性疾患に限られます。中等度以下のうつ病や適応障害、パニック症の場合、治療のゴールは「断薬」または「最小限の頓服」であり、生涯服薬を前提とした治療計画は本来組まれません。
それにもかかわらず「一生飲み続ける」というイメージが定着した背景には、急性期を脱した後の「維持療法期(寛解維持期)」を患者が「不必要な長期服用」と誤解してしまう構造があります。うつ病の再発率は1回寛解後で約50%、2回寛解後で約70%に達すると報告されており、症状が消えた後も半年から1年程度は服薬を継続して脳を保護する必要があります。この医学的理由が十分に説明されないまま漫然と処方が続いた結果、患者側に「やめさせてもらえない」という不信感が芽生えるのです。
また、ネット上で恐れられている精神科薬で性格が変わる噂の真相についても、薬理学的な観点から解明されています。薬によってDNAや個人の本質的な人格が書き換わることはあり得ません。当事者が「性格が変わった」と錯覚する主因は、抗うつ薬(SSRIなど)に見られる「情動平坦化(エモーショナル・ブラインディング)」や、抗不安薬・抗精神病薬の強力な鎮静作用です。「悲しい・つらい」感情が抑えられると同時に「楽しい・感動する」感情の振れ幅も小さくなり、周囲から「冷淡になった」「ロボットのようになった」と見えてしまう現象が生じます。これらは副作用の一種であり、主治医と相談して減量や薬剤変更を行えば、元の感情の起伏を取り戻すことが可能です。