神仏が祀られる聖域でありながら、縁切り神社には独特の緊張感が漂っています。神社関係者やスピリチュアルな因果を研究する識者が口を揃えて指摘する「絶対に参拝してはならない人」には、明確な共通項が存在します。
第一に挙げられるのが、他人の不幸や破滅を願う「呪詛の念」を持っている人です。「浮気相手を社会的制裁に遭わせたい」「嫌いな上司を病気に追い込んで会社から排除したい」といった外罰的な悪意は、縁切り神社の清浄な神力とは決して共鳴しません。神仏は個人の私怨を晴らすための暗殺代行機関ではないからです。悪意を神前に捧げた瞬間、その祈りは「祈願」ではなく「呪い」へと変質し、凄まじい代償として自分自身に降り注ぎます。
第二の特徴は、「安井金比羅宮に行ってはいけない人」の典型例でもある、覚悟のない依存体質の人です。京都の安井金比羅宮をはじめとする名社は、悪縁を断ち切る力が桁外れに強いことで知られます。しかし、自分自身の行動や執着を捨てる覚悟がなく、「神様が何とかしてくれるだろう」と他力本願で縋り付く人は、神威の激しい揺さぶりに耐えられません。自立への覚悟がない者が強い切断力に触れると、精神的なパニックに陥り、かえって深い孤独感に打ちのめされる結果となります。
第三に、何でも周囲のせいにする「完全他責」の思考パターンから抜け出せない人です。人間関係の軋轢は、往々にして相互のコミュニケーションや心理的距離感の歪みから生じます。自分自身の問題点や関わり方を見つめ直す姿勢を欠いたまま「相手だけが100%悪い、消えてほしい」と願う参拝者は、神仏から「縁を招いている根本原因はお前自身だ」と判断され、手痛い内省を迫られる事態に直面します。
第四に、心身のエネルギーが極限まで枯渇し、情緒不安定に陥っている人です。強大な縁切りスポットには、無数の参拝者が残した悲痛な未練、怨恨、苦悩の念が渦巻いています。自己の軸が弱り切っている状態でそうした澱んだ想念の場に足を踏み入れると、その場の重苦しい気配に呑み込まれ、参拝後に鬱屈とした気分がさらに悪化したり、原因不明の倦怠感に襲われたりすることがあります。