発端は1991年、THE BOOMの全国ツアーの合間に訪れた沖縄だった。本土復帰からまだ20年足らず。観光地として賑わいを見せ始めていた那覇の街並みを離れ、宮沢和史が足を踏み入れたのが、沖縄戦の悲劇を象徴する「ひめゆり平和祈念資料館」である。
館内に展示された凄惨な遺品、女子学徒隊の遺影、そして生存者の証言。そこで宮沢が直面したのは、本土の人間が長らく見て見ぬ振りをしてきた、あまりにも残酷な犠牲の現実だった。「大日本帝国の防波堤」として焦土と化し、県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦の不条理。展示室を出た宮沢は、強い憤りと自責の念に駆られ、激しい涙を流したと述懐している。
「自分を含め、ヤマト(本土)の人間は何も知らなかった。知ろうともしていなかった」。観光客として消費するだけの沖縄ではなく、痛みを分かち合うための音楽を作らなければならない。部外者による安易な搾取ではないかという葛藤に苛まれながらも、宮沢は自室に籠もり、三線の弦を弾きながらペンを走らせた。