今日の静けさからは想像もつきませんが、昭和末期の1980年代から1990年代前半にかけて、裏六甲ドライブウェイは関西圏における「走り屋の聖地」の頂点としてその名を轟かせていました。当時の若者文化を彩ったバイクブーム、および漫画やカー雑誌に端を発する峠ブームが拍車をかけ、金曜・土曜の深夜になると、京阪神全域から違法競走型暴走族やギャラリーが集結したのです。
現場では「誰が一番速くコーナーを立ち上がれるか」という過激なタイムアタックが繰り返されました。当時の当事者たちの手記やOBドライバーの回顧録には、極めて生々しい狂乱の現場が記録されています。
「タイヤのスモークで前が見えなくなる中、ガードレールには衝突したマシンの破片やオイルが常にこびりついていた。救急車のサイレンが鳴り響いても、誰ひとりアクセルを緩めようとしなかった」――これは当時の常連だった元走り屋がメディア取材で語った偽らざる証言です。
このような集団ヒステリーとも言える暴走行為の代償は、あまりにも甚大でした。路面にブラックマーク(急制動のタイヤ痕)が幾重にも焼き付けられ、夜間には事故が多発。センターラインを突破した暴走車が、観光帰りの一般ファミリーカーを巻き込む痛ましい正面衝突事故も起きました。自らの命を散らした若者たちの数は一枚の紙には収まりきらず、唐櫃インター周辺の住民からは連夜の爆音と危険運転に対する怒りの嘆願書が警察署へ殺到しました。
兵庫県警はキャッツアイ(道路鋲)の敷設、チャッターバー(段差舗装)の設置、さらには機動隊を投入した一斉摘問など、物理的・人的包囲網を段階的に強化。2000年代初頭にかけて取り締まりを激化させ、最終的に走り屋コミュニティを壊滅へと追い込みました。現在の厳しい規制は、まさにこの血塗られた暴走の歴史に対する行政と社会の防衛反応そのものなのです。