黒柳徹子のキャリアは、まさに日本のテレビ放送の幕開けとともに始まりました。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科でオペラ歌手を目指していた彼女が転機を迎えたのは、1953年(昭和28年)のことです。同年2月に本放送を開始したNHKが募集した「NHK東京放送劇団」の第5期生オーディションに応募しました。
当時の応募総数は約6,000人。そこから幾重もの選考を経て最終合格を勝ち取ったのは、わずか40人でした。倍率にして約150倍という狭き門を突破し、黒柳は「NHK専属女優第1号」として芸能界の第一歩を踏み出します。動機は「子どもに絵本を上手に読んであげられる良いお母さんになりたい」という素朴なものでしたが、現場で待ち受けていたのは過酷な現実でした。
劇団に入ったものの、個性が強すぎる独特の話し方や存在感が災いし、演出家たちからは「お前の喋り方は変だ」「個性を消せ」「通行人Aの役すら頼めない」と連日のように叱責され、ラジオドラマの配役から次々と降板させられる屈辱を味わいます。精神的に追い詰められ、退団を意識していた彼女を救ったのが、劇作家の飯沢匡氏でした。飯沢氏は「そのままでいい。あなたの変な喋り方がいいんだ」と彼女の特異な個性を全肯定し、ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』の主役・トン坊役に大抜擢したのです。
この抜擢を機に、彼女の20代は超多忙を極めることになります。生放送が当たり前だった黎明期のテレビ現場で、機転と知性を武器に八面六臂の活躍を見せ、日本で最初の「テレビタレント」としての地位を確立していきました。