百人一首の謎多き歌人・蝉丸の正体とは?名歌の背景と盲目伝説の真相

百人一首の謎多き歌人・蝉丸の正体とは?名歌の背景と盲目伝説の真相

百人一首の謎多き歌人・蝉丸の正体とは?名歌の背景と盲目伝説の真相の疑問点について、分かりやすい解説を基に徹底解説します。

百人一首に採られたことで日本中にその名を知られることになった蝉丸ですが、そもそも蝉丸とは何者だったのでしょうか。歴史を振り返ると、彼には主に3つのプロフィールが重ね合わされてきました。それが「皇族説」「琵琶法師説」「盲目の隠者説」です。

最古の確かな文献記録である『後撰和歌集』(天徳4年・960年頃成立)の詞書には、きわめて簡潔に次のように記されています。
「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行き交ふ人を見て」
ここには、彼が親王であるとも、琵琶の名手であるとも、目が不自由であるとも一切書かれていません。ただ関所のほとりに簡素な草庵を結んで暮らしていた人物として描かれています。

では、なぜこれほど劇的な伝説が肉付けされたのでしょうか。各説の経緯を整理すると、中世文学が作り上げた「語りの力学」が浮き彫りになります。

第一に蝉丸皇族説の理由です。平安後期の『今昔物語集』や室町時代の能楽『蝉丸』において、蝉丸は「醍醐天皇の第四皇子」と設定されました。さらに醍醐天皇の皇子・克明親王の落胤、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の侍臣(雑任)とする説など、皇族との密接な血縁・主従関係が次々と後付けされていきました。高貴な生まれでありながら過酷な運命によって没落し、世捨て人となる「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」のプロットが、大衆の共感を呼ぶために必要とされたからです。

第二に蝉丸琵琶法師説の経緯と蝉丸盲目説の真相です。『今昔物語集』(巻二十四)には、盲目の蝉丸が逢坂の関に住み、名器「無名(むみょう)」という琵琶を弾いて暮らしていたところ、雅楽の名手であった源博雅(みなもとのひろまさ)が3年間にわたって庵に通い詰め、秘曲「流泉(りゅうせん)」「啄木(たくぼく)」を伝授されたというドラマチックな逸話が収められています。盲目の音楽家としての蝉丸像は、中世に平曲を語り歩いた当道座の琵琶法師たちにとって、自らの職能の正当性を示す「始祖神(開祖)」として祭り上げるのに格好の偶像でした。つまり、盲目伝説も琵琶の名手という設定も、中世芸能者たちのアイデンティティ形成の過程で神話化されたフィクションの側面が極めて濃厚なのです。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。