『水の東西』において劇作家・評論家の山崎正和(1934–2020)が一貫して論じているのは、人間が自然とどのように対峙し、いかにして芸術や美意識へと昇華させてきたかという「文化の構造」です。高校国語の授業で多くの生徒が抱く「なぜ筆者はわざわざ水という身近な物質を選んだのか?」という疑問に対する答えは、水が本来「定まった形を持たない物質」である点に集約されます。
西洋の人々は、形なき水に対して外的な力を加え、空中に高く押し上げることで「彫刻のような目に見える形」を与えようとしました。ローマの広場に点在する巨大な噴水群に代表されるように、水でさえも人工的な空間芸術へと変貌させる姿勢には、自然を支配・克服しようとする西洋の人間中心主義的な思想が色濃く反映されています。
これに対し、日本をはじめとする東洋の文化圏では、水に無理な形を与えることを好みませんでした。水は高いところから低いところへと自然に流れるものとして受け止め、その「流れる動き」や「かすかな音」を通じて、絶え間なく移ろいゆく時間の連続性や無常観を味わってきたのです。筆者は、噴水と鹿おどしという具体的な造形物を補助線として用いながら、「目に見える空間の美」を尊ぶ西洋と、「目に見えない時間の美」を感じ取る日本の感性の違いを浮き彫りにしました。