京都・嵯峨に佇む「広沢の池」が、なぜこれほどまでに多くの旅人や映像表現者を惹きつけてやまないのでしょうか。その最大の要因は、現代の日本において奇跡的ともいえる「借景の純度」にあります。池の東北に聳える標高約180メートルの遍照寺山を背負い、周囲には広大な水田が広がります。視界を遮る高層建造物はもちろん、視界を汚すトラス鉄塔や太い電線類すら極限まで排除された空間設計が保たれています。
池そのものの成り立ちは、平安中期の永祚元年(989年)に遡ります。宇多天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が朝原山に遍照寺(へんしょうじ)を建立した際、庭園池あるいは灌漑用の溜池として開削させたのが端緒と伝えられています(古代の豪族・秦氏が造成したとする説も存在します)。かつて広大な伽藍を誇った遍照寺は後に衰退しましたが、池だけはその原形をとどめ、別名「遍照寺池」としても知られてきました。
平安貴族にとって、広沢の池は月を愛でる「観月の名所」として特別な象徴性を帯びていました。『古今和歌集』や『新古今和歌集』をはじめとする勅撰集には、広沢の池の澄んだ水鏡に浮かぶ月を詠んだ名歌が数多く残されています。歌人・西行法師が詠んだ「宿しもつ 月の光の をさなきは 猶広沢の 池の心か」の調べのように、都の喧騒を離れ、ただ静かに月光と対峙した先人たちの美意識が、今も池畔には息づいています。また、大覚寺の大沢池、奈良の猿沢池、大分県の初沢池とともに語られる「日本三沢」の一つとしてもその名を刻んでいます。
昭和から平成、そして令和の今日に至るまで、この水辺を語る上で欠かせないのが「時代劇の聖地」としての機能です。京都太秦に拠点を置く東映京都撮影所や松竹撮影所から車でわずか10分足らずという絶好のアクセスにありながら、360度どこカメラを向けても「江戸時代や戦国時代の風景」として切り取ることができる土地は日本中を探しても極めて稀少です。『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『銭形平次』から大河ドラマに至るまで、旅の道中シーンや密談の場として幾度となく画面に登場してきました。池のほとりの未舗装路に佇むと、今にも侍や旅の一座が馬を引いて歩いてきそうな錯覚に陥るのも、このロケーションが持つ圧倒的な歴史の厚膜ゆえでしょう。