竹鶴威氏の経歴を紐解くと、彼が単なる「名前だけの跡取り」ではなく、日本の酒類業界屈指の技術者であった事実が明白になります。
威氏は旧制弘前高校を経て北海道帝国大学(現・北海道大学)工学部応用化学科へと進学し、醸造と化学の知見を徹底的に叩き込みました。終戦後の1949年、大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)に正式入社。政孝の厳しい指導のもと、工場の現場でウイスキー原酒の蒸留管理や樽の選別をゼロから叩き込まれました。自著『ウイスキーと私』のなかで威氏は、「政孝は父である前に、一切の妥協を許さない厳格な師匠であった」と述懐しています。
リタに対しても実の母親以上の敬意を払い、リタが1961年に逝去した際、威氏は最愛の母を失った深い悲しみを抱えながらも、政孝の精神的支柱となって会社を支え抜きました。威氏の手腕が歴史に刻まれた代表例が、リタへの鎮魂歌として政孝とともに心血を注いで世に送り出した名作「スーパーニッカ」の開発です。
1985年にはニッカウヰスキー第5代代表取締役社長に就任。仙台工場(宮城峡蒸留所)の稼働定着やカフェグレーン蒸留機の運用など、父・政孝が敷いたレールを進化させ、ニッカを世界トップクラスの蒸留酒メーカーへと押し上げる決定的な役割を果たしました。威氏は2014年12月、90歳で天寿を全うしましたが、その直前までニッカの品質管理に対して妥協のない眼差しを向け続けていました。