竹島領土問題を理解する上で不可欠なのは、日本が感情論ではなく極めて精緻な法的手続きと歴史的記録に基づいて領有権を確立してきた事実です。江戸時代初期の1618年、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)の大谷・村川両家は幕府公認のもとで鬱陵島(当時の呼称は竹島)へ渡海し、アシカ猟やアワビ採取を行っていました。その中継地および漁獲地として利用されていたのが、現在の竹島(当時の呼称は松島)です。
幕府は1696年に鬱陵島への渡海を禁じましたが、現在の竹島への渡海は一切禁止していません。日本が古くから竹島を認知し、自国の領域として実効的に管理していた明確な証左といえます。
明治期に入ると近代国家としての法秩序に基づき、領有権が公式に再確認されます。島根県隠岐島司の調査や漁業者・中井養三郎氏の出願を受け、日本政府は1905年1月28日に閣議決定を行い、島名を「竹島」と定め、島根県隠岐島庁の所管とすることを決定しました。同年2月22日には島根県告示第40号によって公表され、官有地台帳への登録やアシカ猟の鑑札交付など、近代法に基づく主権の行使が着実に積み重ねられました。
外務省の公式見解においても、この措置は「他国の領有権を侵害することなく、国際法に則って整然と行われた領有の再確認」と位置付けられています。日本は太古の曖昧な神話ではなく、公文書と近代主権の確立過程を積み上げることで、領有権の正当性を証明しています。