なぜ大阪に巨大古墳が集まるのか?百舌鳥・古市古墳群の真相と巡り方

なぜ大阪に巨大古墳が集まるのか?百舌鳥・古市古墳群の真相と巡り方

なぜ大阪に巨大古墳が集まるのか?百舌鳥・古市古墳群の真相と巡り方とはどんな影響があるのか? 詳しい意味を丁寧に紐解いて紹介します。

前方後円墳のシルエットは誰もが知る象徴的な記号ですが、なぜ丸と四角を組み合わせた特異な形状になったのかについては、教科書でも深く掘り下げられていません。そこには前方後円墳の形に隠された秘密と、当時の宗教観が深く関わっています。

円形部(後円部)と方形部(前方部)の組み合わせについて、古代中国の宇宙観である「天円地方(天は丸く、地は四角い)」の影響を指摘する説もありますが、近年の考古学では「死者を葬る聖域」と「生者が儀礼を行う祭壇」の合体構造であったという見解が有力です。当初は後円部頂上に埋葬施設が造られ、前方部は死者への祈りを捧げる祭壇や通路として機能していました。時代が進むにつれ、前方部は儀礼の場として巨大化し、後期には幅が後円部の直径を上回る扇状へと変貌していきます。権力者たちが競い合って前方部を拡張させた背景には、参列者や配下の豪族たちを整列させ、壮大な儀式を演出しようとする政治的意図がありました。

一方で、一般の関心が最も高い古墳内部埋葬施設の真相には、今なお多くの謎と論争が渦巻いています。宮内庁が現在も「陵墓」として厳重に管理しているため、仁徳天皇陵や応神天皇陵の本格的な学術発掘調査は許可されていません。しかし、明治5年(1872年)の前方部斜面の崩落事故の記録や、ボストン美術館に所蔵されているとされる仁徳陵出土の鏡や大刀の記録から、内部には精緻な長持形石棺が納められ、大量の銅鏡や武具、金銅製の甲冑が副葬されていたことが判明しています。

宮内庁の治定(じじょう)により、大仙陵古墳は「仁徳天皇」、誉田御廟山古墳は「応神天皇」の墓とされていますが、考古学界では出土土器の編年などから年代のズレが指摘され続けています。「大仙陵古墳は仁徳の息子である履中天皇の墓ではないか」「応神陵こそが仁徳の墓ではないか」という議論は、学術界では半ば公然の秘密です。しかし、厳格な立ち入り規制が敷かれてきたからこそ、墓泥棒による盗掘を免れ、1600年の時を超えて完全な状態で遺構が守られてきたという側面も見逃せません。

阿部 裕樹
著者

阿部 裕樹

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。