かつて千年以上にもわたって機能していた流刑が、なぜ現代の日本法制度から姿を消したのでしょうか。その背景には、明治維新に伴う近代国家建設と法体系の根本的な転換がありました。
明治政府が発足した当初は、旧来の律令法をベースとした「仮刑律」(1868年)や「新律綱領」(1870年)において「流刑」の名称が残されていました。しかし、1880年(明治13年)にフランス法学者ボアソナードの指導のもとで制定された旧刑法(1882年施行)において、流刑を含む追放刑は全面的に廃止されました。
流刑が廃止された決定的な理由は以下の3点に集約されます。
- 近代的人権思想の確立:罪人を過酷な未開地に追いやる追放刑は、近代国際社会から「野蛮な前近代刑罰」とみなされ、不平等条約改正の障害となっていたこと。
- 中央集権的な行刑施設の整備:近代国家として全国一律の「監獄(刑務所)」を建設し、懲役刑による労働と規律訓練(近代的な矯正・更生)を行うシステムが確立されたこと。
- 流刑地の地域社会への負担解消:犯罪者を特定地方に押し付けることは、その地域の治安悪化や経済的負担を強いる不条理な差別政策であり、地方自治の観点から維持不可能となったこと。
【プロの結論】排除と隔離の歴史から見る統治手法の本質
法社会学の観点から流刑という制度を総括すると、それは「国家が犯罪者を直接管理・矯正するコストを放棄し、空間的な排除によって治安の帳尻を合わせていた時代の産物」であったと言えます。共同体から異分子を物理的に切り離す追放の手法は、権力側にとって最も簡便な統治テクニックでした。しかし、個人の尊厳と更生の可能性を重視する近代法治国家へと脱皮する過程で、流刑の歴史的役割は完全に終焉を迎えたのです。