なぜ当代屈指の碩学であり、国家の中枢にいた政治家が、住み慣れた都を追われなければならなかったのか。その背景には、平安王朝の政治構造を激震させた「昌泰の変(901年)」という生々しい権力闘争がありました。
菅原道真の生涯と怨霊伝説を語る上で欠かせないのが、宇多天皇による異例の抜擢です。道真は学者の家系である菅原氏の出身でありながら、その卓越した文章力と行政手腕を認められ、名門貴族・藤原氏が権力を独占しつつあった朝廷において異例の昇進を遂げます。899年には右大臣に任命され、左大臣である名門貴族の若き俊英・藤原時平(当時29歳)と肩を並べるまでに至りました。
しかし、この大抜擢こそが悲劇の引き金となります。宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、院政を敷こうとする宇多上皇と新帝を補佐する藤原氏との間に主導権争いが発生。藤原氏の貴族たちは、門閥の後ろ盾を持たない学者出身の道真が政権トップに君臨することに対して強い危機感と嫉妬を募らせていました。
901(昌泰4)年1月、時平らは醍醐天皇に対し、「道真は娘婿である斉世親王(醍醐天皇の弟)を皇位に就けようと謀叛を企てている」と密告。身に覚えのない謀反の嫌疑をかけられた道真は、一切の弁明の機会を与えられないまま、わずか数日のうちに「大宰権帥(だざのごんのそち)」への左遷を命じられました。これが菅原道真の左遷理由の真相です。
大宰権帥という官職は名目上こそ地方の高官ですが、道真に下された処分は実質的な流刑でした。「給与なし・政務への関与禁止」という極めて苛酷な条件下での配流であり、幼い子供たちも各地へ散り散りに配流されるという、一族解体の厳罰が科されたのです。大宰府配流の歴史的経緯を記した道真の私撰詩集『菅家後草』には、雨漏りのする荒れた官舎で寒さと病に震え、無実を訴える哀切な漢詩が数多く残されています。