日本でこれほど愛唱されながら、原作者であるカール・ブッセ(Karl Busse, 1872–1918)の生涯はあまり知られていません。彼はどのような人物だったのでしょうか。
ブッセは、旧プロイセン王国のポーゼン州リンデンシュタット(現在のポーランド領リピンツ)に生まれました。ベルリン大学などで学んだ後、文芸評論家や編集者として活動し、詩集や短編小説を発表しました。同時代にはライナー・マリア・リルケやフーゴ・フォン・ホーフマンスタールといった新ロマン主義・象徴主義の巨匠たちが活躍しており、ブッセは彼らのような革新的な前衛詩人というよりは、故郷の田園風景や人々の哀感を素朴に歌う「温厚な伝統的抒情詩人」に位置づけられていました。
第一次世界大戦の終結期である1918年に46歳の若さで病没しますが、本国ドイツにおいてブッセの名が今日ほとんど語られない背景には、当時の文学史の力学があります。20世紀初頭のヨーロッパ詩壇は、表現主義やダダイズムといった激しいアヴァンギャルド(前衛運動)の渦に呑み込まれていきました。ブッセの紡ぐ静けさと素朴さは、過激な時代の変革の中で「古風な感傷詩」として脇に押しやられてしまったのです。
しかし、遠く離れた日本の地で、上田敏の鋭敏な審美眼がブッセの詩に宿る「諦念の美学」を見出しました。上田敏自身の手記や当時の書簡を紐解くと、敏はボードレールやヴェルレーヌといったフランス象徴派の難解な名作を移植する一方で、ブッセの小品が持つ「万人の胸を打つ哀愁」を高く評価していたことが窺えます。ドイツの片隅で忘れ去られかけた素朴な詩が、東洋の島国で国宝級の名訳として永遠の生命を得た事実は、比較文学史上の痛快なドラマです。