SNSやネット上の掲示板、知恵袋などの投稿を調査すると、現代の学習者から『山月記』に対して極めてリアルかつ辛辣な意見が数多く投稿されています。「李徴はただのプライドが高い自業自得な男」「家族を路頭に迷わせておいて、虎になってからポエムの心配ばかりしているのが共感できない」といった手厳しい批判が毎年繰り返されている実態があります。
文芸編集部が複数の現役国語科教員にヒアリングを実施したところ、授業の初発の感想では約7割の生徒が李徴の身勝手さに対して反感を抱くといいます。特に、旧友である袁傪と再会した直後、自らが虎の姿に変わり果てていながら、真っ先に依頼したのが「自分の詩三十篇を書き写して世に伝えてほしい」という自己顕示欲の塊のような要求であった点に、多くの読者が強い違和感を覚えます。
しかし、中島敦の筆致が恐ろしいのはここからです。李徴は自らの醜いエゴイズムに完全に無自覚なわけではありません。詩の口述を終えた直後、彼ははたと我に返り、「妻子の暮らしを頼むべきであったのに、己の乏しい詩業に心を奪われていた」と猛省し、涙を流して激しい「愧赧の念」に苛まれます。愚かさを自覚しながらもエゴを抑えきれない人間のどうしようもない弱さ。読者は李徴を「自分勝手な愚者」として切り捨てようとしながらも、自らの中にも潜む「プライドを守るために大切な人を後回しにしてしまう身勝手さ」を突きつけられ、戦慄することになるのです。