人質事件の悲劇は、大会の閉幕とともに幕を閉じたわけではありませんでした。むしろ、ここから国家情報機関による血塗られた報復の連鎖が幕を開けたのです。イスラエル政府は、テロの首謀者および黒い九月に関与した関係者を地球の果てまで追跡して抹殺することを決断。これがイスラエル諜報特務庁(モサド)による暗殺指令、モサド「神の怒り作戦」(オペレーション・リンク・オブ・ゴッド)です。
この秘密工作の全貌を描き、アカデミー賞複数部門にノミネートされたのが、スティーヴン・スピルバーグ監督の2005年の傑作映画『ミュンヘン』です。映画はジャーナリストのジョージ・ジョナスが元工作員のアヴナー(仮名)の手記を基に執筆したノンフィクション『標的は11人』を原作としています。
映画ミュンヘン スピルバーグ実話を巡っては、公開当時から「どこまでが真実で、どこからが創作か」について激しい議論が戦わされました。元モサド長官や作戦関係者は「作戦の細部には脚色が多い」と反論したものの、パリ、ローマ、キプロス、ベイルートなど世界各地で標的が爆殺・射殺されていった冷酷な追跡劇の骨格は動かしがたい史実です。
作戦は1973年、ノルウェーのリレハンメルで、標的と人相が似ていた無実のモロッコ人給仕を誤認射殺する「リレハンメル事件」を引き起こし、国際的な非難を浴びて頓挫を余儀なくされました。スピルバーグ監督が作中で描いたのは、単純な勧善懲悪のスパイアクションではなく、復讐がさらなる暴力を生み、工作員自身の人間性と精神を蝕んでいく「報復の虚無感」でした。この映画が提示した倫理的問いは、半世紀を経た現代の国際紛争においても重く突き刺さっています。