当時の報道や生存者の手記、NHK等の長年の特番インタビューにおける肉声を再検証すると、教科書的な「組織的戦闘終結」という言葉と、壕の中の現実との間には深い乖離が存在していました。
激戦地を生き延びた元学徒や民間人の証言録には、「6月23日を過ぎても何も変わらなかった。むしろ指揮官を失った敗残兵が壕に逃げ込み、食糧を奪われたり、泣き声を上げる赤ん坊を追い出されたりする地獄が続いた」という痛切な告白が多数残されています。米軍の火炎放射器や手榴弾による「壕掃討戦」は7月中旬以降も続き、8月15日の玉音放送すら知らされずに洞窟内で恐怖に怯え続けた人々が数多く存在しました。
現代のSNSやネット上の議論では、「なぜ沖縄だけ慰霊の日が別にあるのか」「8月15日で一括りにするべきではないか」といった疑問が散見されます。しかし、本土における空襲や原爆投下とは異なり、郷土の土地そのものが前線となり、友軍によってスパイ容疑をかけられて処刑された住民すら存在したという特異な歴史的背景が、県民にとって6月23日を風化させてはならない固有の記憶たらしめています。