藤原四家系図を俯瞰すると、当初から北家が圧倒的だったわけではありません。むしろ当初の政界をリードしたのは、長男・武智麻呂を祖とする南家や、官僚機構の実務を押さえた式家でした。藤原南家・式家・京家の違いと北家の台頭プロセスには、疫病禍や政争による劇的な力学が働いています。
天平9年(737年)、平城京を襲った天然痘の大流行により、不比等の4兄弟は相次いで病死しました。その後、南家は仲麻呂(恵美押勝)が権力を極めるものの、恵美押勝の乱(764年)で失脚。式家は平安初期に薬子の変(810年)を起こして中央政界から退潮し、京家は早期に勢力を失いました。その間隙を縫って、天皇側近としての立場を堅持し、穏健な官僚派として地歩を固めた藤原北家が頭角を現したのです。
歴史の転換点となった四家の詳細と現代への影響度を比較すると、以下の実態が明確になります。
北家は良房が人臣初の摂政となり、基経が初代関白に就任することで摂関政治の骨格を完成させました。ライバル貴族であった伴氏(応天門の変)や菅原道真(昌泰の変)を次々と失脚させ、朝廷の中枢を北家直系で埋め尽くしていったのです。