平安時代後期から鎌倉時代にかけて、甘縄神明宮は源氏一族にとって特別な崇敬の対象へと昇華しました。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、源頼朝をはじめとする武家首脳が幾度も参詣し、社殿の修復を手掛けた記録が明確に残されています。
源氏との結びつきの嚆矢となったのは、頼朝の先祖にあたる源頼義です。頼義はこの地で子宝祈願を行い、やがて生まれたのが「八幡太郎」の通称で武名を轟かせた源義家であったという伝承が残っています。この祖先の霊験にあやかるべく、鎌倉入りした源頼朝も文治2年(1186年)に社殿の再建を命じました。
さらに注目すべきは、妻である北条政子との関わりです。政子は長女・大姫や長男・頼家の懐妊・出産に際し、安産祈願の使者を遣わし、自らも祈りを捧げました。権力闘争と暗殺の影が常に付きまとっていた鎌倉初期の武家社会において、後継者の無事な誕生は家名存続を左右する最大の国家事案でした。伊勢神宮の主祭神・天照大御神の神徳と、一門の祖先を育んだ霊地としての記憶が重なり、甘縄神明宮は当時の幕府にとって「生命の誕生と家運隆盛を司る聖域」として機能していたのです。