幕末の政治運動を理解する上で不可欠な「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という概念は、もともと別個に存在していた二つの思想が外圧によって強力に結びついたものです。 「尊王(尊皇)」とは、日本の伝統的な最高権威である天皇を敬い推戴する立場を指します。一方の「攘夷」とは、海外からの侵略者を武力で打ち払う防衛姿勢を意味します。平和が続いた江戸時代中盤まで、これらは抽象的な儒教道徳や古典研究の範疇に留まっていましたが、1853(嘉永6)年のマシュー・ペリー率いる米艦隊(黒船)の来航によって、突如として現実の安全保障問題へと変貌を遂げました。 幕末の日本を揺るがした尊王攘夷運動がなぜ急速に加熱したのか、その理由は主に3つの構造的要因に集約されます。
- 幕府による「日米修好通商条約」の無勅許調印:1858(安政5)年、大老・井伊直弼は孝明天皇の勅許(正式な許可)を得られないまま、アメリカをはじめとする列強5カ国と不平等条約を締結しました。これが「天皇を無視した幕府の暴走」と受け止められ、尊王論者の怒りを決定的に買いました。
- 深刻なインフレーションと庶民・下級武士の困窮:開港に伴い、横浜などの港から生糸や茶が大量に輸出された一方、金銀の交換比率の違いから大量の小判が海外へ流出しました。これにより国内の物価は数倍に跳ね上がり、固定給で暮らす下級武士や庶民の生活は破綻寸前に追い込まれました。「外国人が来たせいで生活が苦しくなった」という怨嗟が、攘夷感情を民衆レベルにまで定着させました。
- アジア諸国が次々と植民地化されたアヘン戦争の衝撃:隣国・清がイギリスとのアヘン戦争(1840〜1842年)に惨敗し、香港を奪われ不平等条約を結ばされた事実は、日本の知識層に凄まじいトラウマを与えていました。「このまま幕府の無気力な外交に追従すれば、日本も欧米列強の属国に成り下がる」という強い危機感が、過激な行動を正当化させたのです。
歴史学者の研究や当時の書簡を検証すると、尊王攘夷派の活動は狂信的な排外衝動というよりも、既存の支配体制(幕藩体制)では国土を防衛できないという冷徹な不信感から生まれた、ナショナリズムの暴発であったことが浮かび上がります。