中国の伝承において「海中に眠る龍の涎(よだれ)が固まったもの」と信じられたことから名付けられた龍涎香(アンバーグリス)。その科学的な正体は、深海を主戦場とするマッコウクジラの結石(ベゾアールの一種)です。
マッコウクジラの主食は、深海に生息するダイオウイカやタコなどの頭足類です。イカの身は容易に消化されますが、鋭利で硬質なキチン質の「カラストンビ(嘴)」だけは消化器官を傷つけるリスクを孕んでいます。これら未消化の異物がクジラの腸粘膜を刺激すると、胆汁酸や分泌物が何層にもわたって巻き付き、長い年月をかけて固形化します。これが龍涎香の母体です。通常は糞便とともに海中へ排出されるか、あるいはクジラの斃死に伴って体外へ放出されます。
海面に浮上したばかりの龍涎香は、強烈な糞便臭と生臭い海の匂いが混ざり合った、およそ香料とは呼べない状態にあります。しかし、比重が水より軽いこの塊は、太平洋やインド洋の海流に乗って数十年から100年以上もの歳月を漂流します。強烈な紫外線、荒波、海水中の塩分に晒され続ける過程で、酸化と脱臭、成分の化学変化が進行。黒褐色だった表面は白や灰色へと脱色され、動物性の異臭が揮発した結果、甘くスモーキーで、どこか湿った大地や古い書物を想起させる、比類なき気品ある香りへと昇華します。
龍涎香の核心となる芳香成分がアンブレイン成分(トリテルペンアルコールの一種)です。アンブレイン自体はほぼ無臭ですが、空気酸化によって「アンブロックス」や「アンブラノール」などの芳香物質へと分解されます。これらの分子は人間の嗅覚受容体に極めて深く作用するだけでなく、他の揮発性香料と強固に結合する物理化学的特性を持っています。そのため、歴史的にシャネルやゲランをはじめとする世界最高峰メゾンにおいて、揮発を防ぎ香りを何日も持続させる高級香水の保留剤として珍重されてきました。現代では化学合成された代替香料(アンブロキサン等)が主流となっているものの、天然の熟成アンバーグリスが放つ複雑極まりない芳香の深みは、いまだ完全な再現が不可能とされています。